赤穂浪士〈上〉 (新潮文庫)
「忠臣蔵」のイメージは、映画や舞台で日本人に張りついてしまっている。ところが、この本は違う。現代人と同じ心を持つ人間がたくさん出てくる。まず、現代お得意の「いじめ」を吉良公月介がとっても意地悪な方法で行う。対して浅野匠之守は、まだ20代で我慢が効かない。とうとう「切れて」しまい、松の廊下で短刀で吉良を切りつける。しっかりした人間なら、吉良を暗殺したり、逆に大勢の面前で恥をかかすこともできたはず。大石蔵之助は、昼行灯と呼ばれる落ち着いた男。彼は思う。「私が殿に付いていたなら・・」大石はわざと「降伏・開城」をいい、本当に忠誠心のある者のみを選び出す。さらに、京都で豪遊し、吉良の密偵の目をかくす。吉良の実の息子は越後の上杉家の後継ぎであり、この家老は千坂兵庫。千坂と大石の心理戦は互角だった。ところが、上杉家を守ろうとする千坂と、父を守ろうとする上杉が対立し、千坂は国へ戻されてしまう。ここに勝負はあった。12月13日の討ち入りで、浪士それぞれの家族との別れが、かっこよく、切ない。あえて豪華絢爛、忠義より金の時代に、流れに逆らって立つ大きい岩となった浪士の姿がビビッドに描かれている。また、上杉の付け人の奮戦ぶりも美しい。吉良家の家臣は、逃げ出したのに。
猫のいる日々 (徳間文庫)
大佛次郎は、無類の猫好きで、彼の家には常時10匹以上、最大15匹の猫が住んでいた。累計すると、彼の家に住んだ猫は500匹を超えるという。
そのほとんどの猫たちが、捨てられたり、通ってきて居ついた猫で、足が不自由な猫や、人間の虐待を受けて目が見えなくなった猫まで面倒を見ていたというから、大佛次郎は実に偉大な人である。
「猫のいる日々」は六十篇近くの随筆と、小説一篇、童話四篇から構成されている。
随筆は、大佛次郎と猫との関わりや、彼の猫観がよくわかってなかなか興味深い。昭和のはじめから、書かれた年代順に並んでいるのだけれど、最初の方の作品に比べると、昭和四十年くらいからあと、年齢にして六十代後半以降に書かれた作品は、主題が猫とはほとんど関係ないものも多いし、内容も少し見劣りするように思った。
童話は、楽しいものや、しみじみとしたものがあるけれど、どれにも共通して言えることは、子猫の仕草や行動に、とてもリアリティーがあることである。さすが、500匹の猫と過ごしただけあって、猫に対する観察眼は常人のものではないのだろう。読んでいて、「そうそう」と何度も内心にやりとし、思わず膝を叩きたくなってしまう。
その中で、子猫が秋の虫の「スイッチョ」を飲み込んでしまう「スイッチョねこ」という童話は、大佛次郎自身が、自著の中で一番の傑作だと言い、この「スイッチョねこ」だけが、書いたのではなく生まれてきたのだ、と評するように、取り立ててダイナミックなストーリー展開はないけれど、ねこを愛する彼の心からぽっと自然に生まれでたような、しみじみと味わい深い作品である。
悪人(上) (朝日文庫)
若い、祖父母とひっそりと暮らす青年が、一人の女性を殺害する。
田舎に暮らし、車以外特に娯楽もなく暮らす青年。
その暮らしぶりは、ストイックそのもの。
出会った女性に対しては、とにかく尽くす。出会いが風俗や出会い系サイトなど、どんな形であれ。
不器用に尽くす彼が、どうやって女性を殺害するに至ったのか、
そしてどうやって、逃げて行くのか…
読み始めた時に、彼は悪人に見えました。
でも読み進めて行くうちに、彼は本当に悪人なんだろうか…という疑問がわいてきました。
そして読み終わった今、私たちが、実際に目にしていない事件の真髄を知ることなど、まれなのだろう、と思っています。
そんなことを考えさせてくれた小説でした。
猫 (中公文庫)
夏目 漱石に内田 百間、梶井 基次郎、現代ならば町田 康や村上 春樹。
猫についての小説や文章を書いた作家は数多く、そしてそれらの作品は、
いずれもが例外なく優れた叙情性を持っている。まるで、猫について
表現することこそ、人間に言葉が与えられた理由ででもあるかのように。
なぜ物書きは猫に惹かれるのだろうか。おそらくは猫という生き物が
あの丸くて柔らかい一つの体の中にあまりにも多くの要素を秘めているからであり、
それを気まぐれに見せてはまた隠し、また見せする様子が、作家たちの筆を
誘うからなのだろうと思う。可愛さ。美しさ。生物としての脆さと強さ。
ときに赤ん坊のように幼いかと思えば、仙人のごとく達観しているように
見えることもある。獣としての荒々しさや卑しさが、人間など足元にも
及ばないような高貴さとくるくる入れ替わる。猫の持つそうした
いくつもの側面を言葉でとらえようと、作家たちは猫と全霊で向き合い、
やがて筆を取る。結果として、猫を書いた作品に傑作が並ぶことになる。
この『猫』にも、作家をはじめとする創作を生業にする人々が
それぞれのやり方で猫と付き合うことで生まれた珠玉の文章が連なっている。
微笑ましいもの、何か考えさせられるもの、いずれも適度に肩の力の抜けた、
洒脱な作品ばかりだ。確かに、猫と向き合うのに思想や信条はいらない。
猫の前では人は裸だ。それもまた、「猫もの」に傑作が多い理由かもしれない。
コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
キレル、人たちが増えています。
子どもに限らず、青年も中年も老年もキレています。
それは、つながりがなくなったから=キレルなのだと思います。
本書『コミュニティを問いなおす』では、国家や都市といった大所高所の視線なのですが、
高度経済成長という神がいなくなった日本で、どのようなリンクがあり得るのかを探っていきます。
もちろん、インターネットもそうです。
余談ですが、携帯電話をなくしたりわすれたりする以上の不安というか恐怖をなかなか考えつきません。
携帯=ユビキタス=偏在=いつも誰かとつながることができる状態を保つ神器などという連想が浮かんできました。