プライムセレクション 柏原芳恵
デビュー曲+TOP10ヒットだけを集めて\2000とお買い得の『ゴールデン☆ベスト』、ご本人のお気に入りを集め、ファン待望のTV映像のDVDも収録したコア向けの『CD+DVD THE BEST』の2作は、非常によく出来ていて、芳恵さんの表現力の高さも味わえる作品だと思います。
ですが、これはいったいどういったこだわりなんだろう・・。
「第二章・くちづけ」よりも「乙女心何色?」にこだわった理由、名曲と言われる「夏模様」、松本隆-筒美京平コンビで歌謡ファンも多い「ト・レ・モ・ロ」を外してまで、アルバム曲の中島みゆきカバー「アザミ嬢のララバイ」を入れた理由が分からない・・。音が特別、良くなった訳でもないし。これだから、レコード会社はいい加減・・と言われてしまいそうな内容なのが残念。表現力アーティストのカラーがしっかりしているだけに。
可能世界の哲学―「存在」と「自己」を考える (NHKブックス)
遅ればせながら論理学の基礎を独学してみようかと思っていた私にとっては,学習意欲を鼓舞してくれる本だった。不正確な言い方になるが,「すべての~」と「ある~」,「必然的に~」と「可能性がある~」などといった論理学の言い回しが,「可能なあらゆる世界」における存在論的な思考に置き換えられること,主語と述語からなる言明は世界認識を表明していることに気づかされた。
可能世界とはなにかについては,それを実在とする意見としない意見,それぞれがさらに細分されて,結論が出ていないという。個人的にはいわゆる「神」という言葉で表現されるところのものの知において無限の可能世界があり,現実にはいまのこの世界のみがあるのだと思い,それについて論理学的に証明可能かどうかには,それほど興味はない。また「百歩ゆずって全知全能の神の実在を認めて,なぜこの世界だけを実在させたか」との疑問についても,興味はない。それは神の自由意志だと思うから。自由意志で,あえて選んでこの世界を創った。あえて選んでこの花を,その草木を,あの人この人を創った。それが自由な意志によるものゆえに「神はそのひとり子を与えるほど,世を愛された」と信じてしまうものにとっては,それを人間の理屈で理解したいだとか,できるだとか思うのは,頭のよい人ならではの勘違いだと感じる。海の水をコップでくみつくそうとするようなものだ。そんなわけで,作者が力を入れた後半の「世界」と「自己」についての考察は,つまらなかった。
論理パラドクス―論証力を磨く99問
学生時代(高校とか大学)とかでやっていた
論理問題を思い出します。
といってもそんなに身構える必要はなく
「床屋のパラドクス」や
「くじのパラドクス」など
日常にあるテーマをパラドクスにしているので
いいです。
99問あるので、寝る前に読むとよく眠れます(笑)
教授とミミズのエコ生活
ソーラーパネルを設置したついでにエコっぽいことを他にもしてみたくなってミミズコンポストを始めた昆虫好き著者のエッセイ。
ミミズの交尾に感動し、掴み上げたミミズのひんやり感に感動し、ふかふかの堆肥に感動する著者の生き生きとした描写に私も感動。ミミズ愛がこうじてサプリや栄養ドリンクを投入したり、買ってきたままの食材を投入したりして、本末転倒な反エコ生活に転落する気持ちもよくわかる。後半は前半のような感動描写が減り、大事件も常態化して著者も読者も「またですか、またやっちまいましたか」感ありありになるのだが、決してつまらなくなるわけではない。
次第にコンポスト生態系からカオスな自然の摂理のようなものを感じ取っていくわけだが、生物学への造詣が深そうな描写もあったりして楽しい(種を存続するため、という解説書の記述に突っ込んでみたり)。昆虫、軟体動物、その他庭のかたすみの小動物的なものが苦手な人は注意されたし。
ラッセルのパラドクス―世界を読み換える哲学 (岩波新書 新赤版 (975))
大学に入る前はバートランド・ラッセルというと、モームやサピア、ハヤカワやハクスリーなどと並び、その散文の簡潔明瞭さから入試英語の問題文に頻繁に選ばれる代表的作家の一人という印象が強かった。恐らく、そういうふうにラッセルをイメージしている人は多いと思う。大学に入って哲学系や言語学系の授業を経るにつれ、ラッセルという人は本来思想界においてに極めて重要な位置を占める哲学者であったということを徐々に知るようになったが、それでも、では一体どういう仕事をしたのか、という段となるとイマイチよくわからないというのが本音だった。興味はもっていたが、なかなか手軽に読める導入的な本がなかったのだ。この本はまさにそういう導入的役割を果たしてくれる本である。哲学者ラッセルの思想が、歴史的変遷をおいながら比較的丁寧に、具体例を用いて解説されている。もともとが難解な題材を扱っているだけに決して容易に読める本ではないが、それでも軽快な文体と時折顔を見せるいわゆる大陸哲学に対する辛辣な批判が手伝って、ぐいぐい引き込まれていく。その中で、ラッセルとホワイトヘッドあるいはウィトゲンシュタインとの関係が明らかになり、かつ、その哲学的理論が未来に秘める可能性までもほのめかされ、これまでラッセル哲学に対し漠然と抱いていたイメージが一新される。日常言語の有用性を認めながらも、世界を正しく反映するためにはそれは不十分だとして真に論理的な表現法を追い求めたラッセル。筆者の言うように、西洋の分析的志向を体現する彼の哲学は、全体論的志向が強いと言われる東洋人の我々にとって、どこまでも魅力的なのかもしれない。