おかしな時代
20年くらい前のこと、著者に一度だけお目にかかり、出されたばかりの本の部数を聞いて、うっと言葉につまったことがある(「犀の本」のシリーズ)。そんなに少なくて、なんであんな定価がつくんだ?!
これも20年くらい前、私の部屋に来て本棚を見た先輩編集者が「ごみ箱みたいだな」とのたまった。彼にしてみれば編集者の本棚とは、岩波の漱石、鴎外らの全集を中心にあるべきものだったらしいが、私の本棚はと言えば晶文社の犀のマークのついた背表紙を判型やテーマごとにきれいに並べてあるといったもの。それだけ晶文社育ちでした。加えて黒テントも入りたいくらい好きな時期があった。
晶文社の代表的著者の一人でもある片岡義男さんが、晶文社は会社ではなくサークルだと言ったと書いてありますが、学生演劇、新日文、小劇場、晶文社、と金もないまま、飛び回っていた著者や仲間たちの描写には、今はないアナーキーなエネルギーを感じます。メディアや表現をめぐる経済システムが整備されすぎた現在、ここからもう一度、エネルギーを汲み出せるかなあと困惑もしつつ、読んでいる間はひたすら面白い至福のときでした。
未完結の問い
これは本文の随所でも後書きでも自省しているが、聞き手=鎌田哲哉の自慢話の書き散らしか、そうでないとしたら巨人の胸を借りて、自分の論敵をくさす本なのではないか。
かなり大西の核に肉薄しているだけに、その点があいにく汚点となっている。
神聖喜劇 (第1巻)
表紙で大きく口を開けて怒鳴っている人物は主人公東堂太郎ではなく、言わば敵役の内務班長大前田文七である。そしてこの場面は第1巻でのハイライトシーンの一つで、彼のセリフは
「職業軍人でもない俺達の 誰が好き好んで五年も七年も こげな妙ちきりんな 洋服ば着て暮らすか うんにゃ、何のためか ようと考えてみよ ・・・」
1頁まるまる使った大コマで次のページは後姿でセリフの続き。本の裏表紙にはその後姿。その白黒画面に紫の明朝縦書きで「第一巻 神聖喜劇 大西巨人のぞゑのぶひさ岩田和博」名匠鈴木成一デザイン室の面目躍如である。本編の当該場面に至ってこの装丁の素晴らしさを実感した。
神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)
読んだのは、28歳のころですかね。月給も安くて1冊500円は結構きつかったけど全巻買って、仕事の合間や通勤電車のなかで読みました。
ストーリーは、太平洋戦争も末期の兵営が舞台。徴兵された新兵の主人公が、天皇の軍隊による人格の否定や人間的権利の剥奪に徹底して抵抗する様が描かれています。抵抗の武器は論理。全巻通して軍規や軍法をめぐり非常に精緻な論理の解釈や下士官や将校との論争が描かれています。これは見もの(読みもの?)です。天皇の名による軍規や軍法を逆手に取って兵の権利を論証し主張する。天皇をバックにしちゃうから上官も応ぜざるを得ない。こうして論争の場に引きずり出された軍隊は、決して一枚岩の組織ではなくレンガ積みの巨大な楼閣として正体をあらわにします。ここそこで展開されるレトリックには、ぞくぞくします。
天皇の軍隊への二等兵の抵抗。ここに人間としての抵抗の原点を探ろうとした、著者の思いもまた知るべしです。
付け加えて、兵営内のおかしな慣行や、そこで生きる兵隊たちの人物描写、心理描写もなかなか興味深いものです。
著者の大西は、莫大なエネルギーをこの作品に注ぎ込み完成にいたりました。そのモチベーションも興味をそそられるところです。もちろん、天皇制と旧軍への批判もある。しかし、もうひとつ、著者がかつては立場をともにした日本共産党とその文芸活動への痛烈な一撃たらんとこの作品を上梓したと考えるのは私だけでしょうか。これだけのもの書けるものなら書いてみろ!てな意識も多分にあったと思います。
読んだぞー!って叫びたくなるほどの満足感に星5つです。
神聖喜劇〈第2巻〉 (光文社文庫)
軍隊もの、確かに。エンターテイメント小説、確かにそう。
そうなんだけれど、この日本文学の金字塔「神聖喜劇」とはいったい何だったのか、について考えるとき、
それらの諸要素はあくまで付随的なものでしかない。
とことん「おのれ」を見つめ続けたことによって、また「人間」というものについて考え続けたことによって生み出されたものであることは間違いないし、また日本封建社会の言いしれぬ闇と、その問題に直面したときの人間の心の状態をこうまでも見事に観察、描写したものは滅多にない。