イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)
2011年を締めくくるにふさわしい素晴らしい宗教本。著者のケセン語訳聖書の入門篇であると同時に、震災という苦難の後に何かを信頼して活き活きと生きていくことの意味を深く考えさせてくれる。「愛する」→「大事にする」、「悔い改める」→「心をスッパリ切り替える」、「信仰の薄い者」→「頼りにならないやつ」といった斬新な訳を著者が選択するにいたった理由がわかりやすく述べられながら、自分の生きる土地の人びとと言葉に対する愛情があふれまくってきて好感触である。医師という自然科学の徒の観点から聖書の「非科学的」な記述をどう解釈するかというところも注意を引く。そして、瓦礫の山と無数の見知った死者の前で人が立ち尽くしたとき、聖書は、イエスの言葉は、何をしてくれるのか。「本当の幸せ」について少しでも考えたことのある方なら、キリスト者ならずとも、一度は読んで損のない作品だと思う。
ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書
山浦玄嗣氏は、60歳を過ぎてギリシア語を0から学び、原典から4福音書をケセン語に翻訳した。その後、登場人物ごとにふさわしい方言を喋らせる新しい福音書の翻訳に取り掛かった。その本がほとんど完成した時、それらは出版社ごと3.11の大津波に流された。しかしこのプロジェクトは不死鳥のように蘇り、2011年半ばに新しい本として出版された。
イエスとその弟子たちはケセン語を話し、裏切り者のユダは山口弁、イエスを裁判で裁いたポンテオ・ピラトは鹿児島弁を話す。サマリア人は鶴岡弁、ギリシア人は長崎弁を話す。方言はそれぞれのネイティブスピーカーに翻訳を頼み、方言学者の井上史雄氏の校閲も得た本格的なものだ。国語学的な観点からも非常に面白いが、読み物としても、これまで無味乾燥に感じられた聖書の登場人物が、生きた人間たちとして眼前に蘇る希有な物語になっている。
マタイ福音書のペトロの否認の場面:一人の下女が近寄ってきて言うには、「たしか、あんたはん、あのガリラヤのイェシューたらいうやつといっしょにいやはったやろ?」ペトロはそこにいた者どもの前で首を横に振り、オロオロとこう言った。「おめさんが何イかだってるんだが、おらにはさっぱりわがんねア」
ピラトがイエスの対処方法をユダヤ人に聞く場面:「そしたなア、お助けさアぢゃっちゅう此んイェシューをば余はどげんしたらよかろかい?」人々は口をそろえて言った。「磔にしとくれやす!」
楽しみながらあっという間に4福音書を読破できること請け合い。教会の礼拝でも使ってほしい・・・(そしたら寝なくてすむんだけどな)