一日一生 (朝日新書)
比叡山に千日回峰行を二回成し遂げた超人的な僧侶がいる。酒井雄哉(さかいゆうさい)師である。
どんなすごい人かと、その著「一日一生」を読んでみると、ごく普通の人。というより落ちこぼれの人生を送りかけた人だった。勉強もできなかったし、イジメのようなこともした。悪いことばかり起こった。一番の悲劇は、結婚した奥さんが二ヶ月で自殺したこと。それから縁あって比叡山に登る。そこで偶然、千日回峰行中の行者に出会う。運命の出会いだった。
39歳(1965)という高齢で運命の出家。親子ほどの若者と一緒に、小僧修行に励む。それまでのうまく行かない落ちこぼれ人生がウソのように運命が好転し始める。叡山学院を首席で卒業、天台座主賞を受賞。1973年千日回峰行に挑戦。ここから1987年まで計14年の歳月をかけて、千日回峰行を二度満行するという偉業を達成した。大阿闍梨(だいあじゃり)の誕生だ。
そんな酒井雄哉師の人生を好転させるための言葉は、この著のタイトル「一日一生」。一日を一生と思って生きる、という実にシンプルだが誰にも分かり易い一語だ。
この著の中に、「足が疲れたら、肩で歩け」という下りがある。これは酒井師が千日回峰行を達成した先輩から聞いた「大ドロボー」の言葉だ。走っていて、疲れたら、注意を肩に集中することで、足を休ませる工夫(智慧)である。親鸞の悪人正機説ではないが、時には、悪人にも教わる酒井師の心構えは凄いとしか言えない。
生きる羅針盤を失いかけた現代日本社会にあって、この著は、やさしく素朴な言葉で書かれた人生の深い智慧をちりばめた素晴らしい本だ。特にたった今、何故、人生がうまく行かないのか、と思っている人には、是非一読をお勧めしたい。
ペンブックス4 神社とは何か? お寺とは何か? (Pen BOOKS)
雑誌の記事を編集し直した本のようですが、その内容はかなりしっかりしています。書籍よりも雑誌の様なスタイルを好む人には良い本だと思います。
但し、個人的には少し読みにくい印象があり、はじめのページから最後のページまで順を追って読む本と言うよりも、ぺらぺらめくって気になったところをよく読むという感じです。写真とかイラストなども多く、文字ばかりの本よりは良いのですが、、、
この著者の他の書籍の方が、全般的な知識を頭に入れるには良いと思います。
迷える者の禅修行―ドイツ人住職が見た日本仏教 (新潮新書)
禅の修行を物見遊山的に体験した外人の面白おかしい感想文ではない。本格的である。ド真剣なのである。外人が禅に志し、人生の意味を明らめたいと願って、日本に渡り修行を積んで、実際に安泰寺の住職になってしまった人である。ただでさえ禅寺の修行はすさまじいものだと聞いている。日本人でも在家者が出家して僧侶になるのは稀である。ネルケさんは不撓不屈の精神で、なんども挫折しかけたけれども仏の教えや彼に関わった人達に救われて前へ進むことができた。ネルケさんには苦難を乗り越えていく資質や才能、知性も人一倍兼ね備えておられるのだろう。そうした天賦の才が随所に読み取ることができる。日本人が忘れ去ってしまった仏教の真髄をちゃんと掴んでおられる。これには正直驚かされるし、日本人として恥ずかしくも思う。現役の職業僧侶にとっても耳の痛い話だろう。
禅の修行、とくに座禅によって悟りを求めるとか、何かを得られると思って取り組むと肩透かしを食う羽目になる。悟りを得たからといって、その結果を目的に掲げる倒錯をたいていの人は犯す。結果は結果でしかない。目的などない。あえて言えば何も求めないことを求めることだろうか?と評者は思う。
得たことを放下することが、得たものを後生大事に抱え込んで煩悩に陥ることより重要なのだとネルケさんは言う。一瞬一瞬の今を生きる大切さを力説する。「仏道を習うは、自己を習うこと、自己を習うことは、自己を忘れること」と道元禅師の言葉はこの本でも引用されているように、自分を忘れてこそ、仏の生命に触れることができるのだと思う。
ネルケさんの考え方の土台そのものが、「大人」なのだ。大人とは、こういうことだ。初詣にあれをくれこれをくれというのではなく、「『仏さま、神さま、命をありがとう。こんな私でもお手伝いができれば、どうぞ何でもさせて下さい。よろしくお願いいたします。』」(P248)と手を合わせられる人のことを言う。
ファンシイダンス [DVD]
マニアックなB級映画。
出演者の皆さんのファッションや、音楽のセンスの田舎臭さに、笑いを通り越して愕然とさせられる。
でも、当時はあれが最先端のかっこいいファッションだったのだろうか?
だとすれば、いまだに古さを感じさせないお坊さんの格好って、すごい。伝統を馬鹿にするべからず。
ということを考えさせられた。