シン・レッド・ライン オリジナル・サウンドトラック
ハリウッド映画の音楽界では知らぬ者は1人もいない大御所ハンス・ジマーの初期の頃の作品。
ジマーは88年に「レインマン」でデビューし94年に「ライオンキング」でアカデミー賞を受賞していますが、それでもまだ現在のようなヒットメーカーではなく、伝説の映画監督テレンス・マリックから声がかかったときにはどんな心境だったのでしょう。
後のジマー作品の基礎になるような旋律がつまったアルバムで、映画を観ていない方でも聴き応えがある一枚です。ジマーファンには強くお薦めです。
残念なことに、現在このアルバムを入手するには"中古"しかありません。
"出品者"より購入しましたが、"良い状態"との表記があっても届いた品は、商品ギリギリのラインでした。(ディスクは磨きキズだらけ。帯やジャケットにはキズがあり。プラケースは汚れだらけ…)
これのどこが"良い"んでしょうかね?
"良い"の基準が、酷い破損がなく、視聴はできますよ…ということなんでしょう。
出来れば中古ショップなどで見つけて、直接ディスクを確認して購入するのが安心です。
シン・レッドライン コレクターズ・エディション [Blu-ray]
『ニンゲンは犬に喰われるほど、自由だ。』…とは俺の好きな写真家・藤原新也の『メメント・モリ』に載っている、実際ガンジスの砂州に打ち上げられた人間の死体を貪っている写真につけられた、キャプションである。
死も生も、聖も性も「カオスという“秩序”」という一見、矛盾した文脈の大河の混濁した流れに収斂していく。
…死体と、砂州から立ち上る陽炎と、爛れた夕日と…手をつないで家路に就こうとする父親と幼子。
全てが等価に、この美しき自然の中に在る。
藤原新也は、どの被写体に対しても、無碍の境地にてカメラを向けている。
かつて『シンレッドライン』という、戦争映画があった。
時期を同じくして、『プライベートライアン』が公開され、残虐な描出方法の差のみで、この二作は俎上に上り、語られた。
もちろん、そういう点においてはエンタティナーたるスピルバーグの作品に軍配が上がっていた。
たが、今一度、観てみて欲しい。
この作品は藤原新也と同じく、戦火ただ中のガダルカナル島において、宇宙の在りようを無想無念の視座で見つめる。
激しい戦闘が行われている、優しい風に愛でられた柔らかな青い草むらに、太陽を覆っていた雲が切れたその瞬間に深い緑から、さぁーっと金色の、麒麟の体毛のような輝きに染まる一瞬のシーンの、なんと神々しことか!
そして、兵士達それぞれの心象がモノローグやフラッシュ・バックで語られるのだが、これは何かを相対的に描写して、キャラクターの心情そのものや、背景を観客に知らせるためのニュアンスじゃなく…詩情〜それは純化された心のつぶやき〜によって、人それぞれが均しく内に持つ宇宙(コスモス)を表現しようと試みる。
そして、それは各自のつぶやきが共時性に昇華され、幽玄で微妙な法則性を持つ、大自然の移ろいと相まって、宇宙の在り方まで描くことを目的にしているのだ。
この作品の意図するところは、美しい自然と対比することで戦争の愚かさを描こうとするものでは決してない。
戦争もハイビスカスの花も、銃創に腹を抉られ痛みに叫ぶ兵士も椰子の実でサッカーをする現地の少年の笑顔もただ、“在る”だけなのだ。そこには“いる”という認識はなく、あらゆる事が、調和を以ってゆらいでいるだけなのだ。
後に『シンレッドライン』を作ったテレンス・マリックは『ツリーオブライフ』において、藤原新也と同じくする視点を、ピカソのゲルニカのようにより壮大により繊細に、そして…より抽象的に、同じテーマを膨らませて描いて見せたのだと思うのだ。
何はともあれ、『シンレッドライン』のBlu-ray化に快哉の叫びを上げたく思います。
出来れば『バッド・ランズ』も。
シン・レッド・ライン〈上〉 (角川文庫)
映画の公開に合わせて文庫訳し下ろしで刊行された本書ですが、あまり売れたという話を聞きません。残念です。書店で自由価格本として廉価販売されているのを見ました。自由価格本は通常、出版社の在庫整理という意味もありますから、在庫がずっと維持されるか心配です。
重厚な読み応えのある作品で、読みがいあります。第二次大戦の太平洋戦線をアメリカ側から描いた小説では、たぶんこれに勝るものはないでしょう。アメリカ軍の物量作戦の祖型が緻密に描かれていて勉強になります。
本作の映画を見た人にもすすめたいし、戦争に興味がある人、アメリカ文化や北米史に興味のある人は必読です。アメリカ文学史に輝く作品ですから。
シン・レッド・ライン 【VALUE PRICE 1500円】 [DVD]
祝!テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』カンヌ・パルムドール受賞!
彼の新作が観れる日が再び来るとは思っていませんでした。そんなテレンス・マリック・イヤーの今年だからこそ、書こうと思います。
『シン・レッド・ライン』は戦争映画ではない、と。
この映画が公開されたのはもう10年以上も前ですが、その時マリックはたった2本の映画を撮ったのみで映画界から遠ざかっていた「伝説」で「幻」の監督でした。だから、当時のマスコミは「伝説の監督の復活」というキャッチコピーでこの映画を宣伝し、マリック映画を良く知らない人間まで過剰な期待をしてしまった、のだと思います。
もうひとつの不幸は、ほぼ同時期に『プラベート・ライアン』が公開された事で、露骨に比較されてしまった事。しかし、表向きは戦争映画のように見えても、本作は本質的に全く違った作品だと思うのです。だから比較すること自体がそもそも間違いなのだ、と言いたい。
テレンス・マリックは、デビュー作の『地獄の逃避行』から一貫して「人間界の営み」と「自然」を対比して描いてきた監督です。人間ドラマを繊細に描きつつも、突如として昆虫や動物、自然の風景などがインサートされ、人間たちの愛憎や争いも、世界の大きなうねりの中の小さな出来事でしかない、という事に気づかされます。そしてそれが、マリック映画において最も重要な視点なのです。
確かに、マリックの映画は情報量が多いので、そこで描かれる全ての事に神経を集中しながら観ていると、混乱しかねません。特に本作は色々な登場人物のモノローグが交錯するので、誰が何を言っているのか判らなくなるような所もあるかもしれません。しかし、マリック作品で描かれる人間ドラマは「作為」を持って語られるものではなく、一つ一つの人物の言葉や行動に絶対的な「意味」が込められたものでもなく、それは言ってみれば人間社会という「混沌」を無作為に描いたもの、のような気がします。
マリック監督はリハーサルをする事を嫌い、「Ready, shoot!」で始める、よくある現場と違い、役者に自由に演じさせ、いつの間にかカメラが回っている・・・といいます。そんな撮影スタイルにも、監督の独特な目線が感じられる気がします。
この映画で重要な点は、ヨーロッパ戦線ではなく太平洋戦線を舞台に選んだ、という事です。つまりここにはまさに「荒々しい自然」の中に放り込まれた人間たちの姿があるのです。
激しい戦闘の最中にインサートされる、巣から落ちた鳥のヒナののたうつ姿 ― これはよくある「象徴」の演出ではなく、「人間が殺し合っている最中でも、同時に自然界でも生命の生と死が進行している」ことを表し、兵士が指で触れると閉じる「ねむり草」や、草原を進む兵列の間を飛んでゆく色鮮やかな蝶 ― これは、生きているのは人間だけではなく、人間の周りにはつねに「生命」が存在している事を表しています。そしてこの映画では、ラストに向かうにつれ「自然」との対比がいや増していく事に気づくはずです。
筆者は特にナチュラリストでも、狂信的な自然保護の思想を持った人間でもありません(シー・シェパードとか大キライだし)。ただ思うのは、人間は単体の存在として生きている訳ではない、という事。
人間は自分たちが地球上で最も優れた生物であるかのように振舞っていますが、地球という大きな仕組みの中で、個々の生命が果たしている役割の重さは皆変わりありません。生命にしても無機物にしても必ず何かと関わりを持っていて、他の生命の存在を必要とし、また必要とされることで「世界」は成り立っています。
よくマンガなどで「私は完全な生命体になった!」とかいう描写が出てきますが、それはもう絵空事で、他の生命との関わりを必要としなくなる、という事は裏を返せばこの地球上に存在している意味がなくなる=生命として「完全」になるというのは「滅ぶ」と同義語だと筆者は思っております。
進化の果てにあるのは滅亡、というのはそういう意味なのではと思うのです。
多くの映画監督は大抵「人間」しか見えていません。またほとんどの映画は「人間」だけを描いた作品です。風景を美しく描いた映画は多くあっても、大抵のものは人物の心理の象徴として描かれています。が、テレンス・マリックは風景(自然)を人間社会の対照として描き、それによって人と世界の関わりを我々に気づかせてくれます。
例えばヴェルナー・ヘルツォークの映画にも、そうしたテーマを垣間見る事はできるし、バルベー・シュレーデルのいくつかの作品にも、近いものがあるかと思います。しかし、デビューから一貫して同じテーマを追求し続けているのは、テレンス・マリックぐらいではないでしょうか。
この映画には、ウィット二等兵という一人の純粋な青年が登場します。普通の戦争映画なら、彼は人間の争いの醜さを目の当たりにし、それを語る客観的な立場のキャラクターとして描かれるはずです。しかしこの映画では、ウィット二等兵も特別扱いはされません。普通の兵士と同じく、普通に死んでゆきます。自然界の生死ににはえこひいきがないのと同じように・・・。
映画のタイトル『シン・レッド・ライン』は何を意味するのか?それは「人間」と「自然」の間に引かれた境界線のようにも思えます。Thin = 細い、その境界線は人間の頭の中では存在しているかのように思えても、実は存在していない・・・そんな風にも解釈でき、あるいはもっと抽象的な別の「何か」を象徴しているようにも思えます。
この映画のレビューを読むと、賛否両論に真っ二つに分かれていて、『シン・レッド・ライン』を好意的に受け止めている方は皆、戦争映画という枠を超えた「何か」がこの映画に存在することを感じているようです。また否定意見は皆、戦争映画としてしか本作を見ていないのが判ります。
この映画の中で我々が見なければいけないものは、史実に対して正確か、とか日本兵の描き方がどうとかいう事では、ありません。枝葉末節に捉われていたら、樹の幹が見えなくなってしまうのと同じで、ここに描かれる「戦争」は、人間同士の争いという、普遍的なテーマの象徴物でしかない、のです。
よく「お金を払ったからオレ様はお客様だ。だからオレ様の満足するものを観せろ」という態度の映画ファンがいますが、筆者はそれには賛同できません。商売というものの上に成り立ってはいても、作品と接するというのは創り手と受け手の「作品」を介したコミュニケーションだと思っています。
だから創り手は何を伝えようとしているのか?それを考えて、受け止めようとする姿勢を忘れてはいけない、と思うのです。
解釈は観た人の数だけあって良いと思います。「シン・レッド・ライン」のレビューを読んでいても、筆者などよりずっと深い考察をしている方もいて感銘を受けたりもします。どんなメッセージを作品の中に見出しても、それは個人の自由です。
だから「戦争映画を観に行ったら、全然違うものだった」― それはちっともネガティブなものではない ― 思いもしなかった発見と出会う、これほど素晴らしい体験はないのではないでしょうか。
映画のラストカットで映し出される、打ち捨てられたヘルメットの穴から真っ直ぐに伸びるマングローブの若木・・・それは、死んだ兵士への哀惜の意を込めたセンチメンタルな画ではなく、
「どんなに人間が醜い争いを繰り返し、自然を破壊しても、自然は必ずまた再生する ― 」
そんなメッセージが込められているのではないか、と筆者は思いました。
マリック監督は、本作の後『ニュー・ワールド』で、自然と共存していたヒロイン=ポカホンタスが人間の文明社会へ嫁いで行くことで、何を得て、何を失ったかのか ― を描き、長年のテーマに決着を着けたかのように思えました。
そして、新作『ツリー・オブ・ライフ』は、父と子の物語と交錯させながら、宇宙の存在(生命の樹?)を暗示していくドラマ、のようです。
テレンス・マリックが『シン・レッド・ライン』の向こうに見出したものは何か ―
8月の公開が楽しみです。