ウィトゲンシュタイン入門 (ちくま新書)
永井氏は「この本は『哲学』の本であって」(ウィトゲンシュタインの)「解説書や概説書では無い」、そして「考えつつ読み、ときに立ち止まって考える、という過程を省略しないでいただきたい」という。
まさにその通り! これは哲学の本なのである。
そして「ある哲学者と問題を共有したとき」自分自身の哲学が始まるのだ。
永井氏がウィトゲンシュタインと共有した問題とは「わたし」についてだ。
もちろん写像や文法、言語ゲームといった思想についても深く触れられている。
しかし特筆すべきなのはウィトゲンシュタインの思想の中で、特に独我論と呼ばれるものを自らの問題として共有し、思索を深めていく点だ。だから最高峰のウィトゲンシュタインの入門書といえる。
何より分かりやすく書かれているので、初心者もいつの間にか哲学が身近に感じられる。奥行きもあり、読み返すたびに立ち止まり考えることを余儀なくされる名著だ。
反哲学的断章―文化と価値
「私の思想をたのしむことは、私自身の風変わりな生活をたのしむこと。これが、生きる
よろこびなのだろうか」
ウィトゲンシュタインが残した手書きメモ。覗いてみよう。
「何も言わないのに匹敵するほど、素晴らしいことを言うのは、芸術ではむずかしい」
「君は新しいことを言う必要がある。だがそれは古いことばかりだ。もちろん君は
古いことを言うだけでいい。にもかかわらずそれは新しいのだ」
「深いところに降りていくには、遠くへ旅をする必要はない。家の裏庭でできることだ」
「比較が可能であることではなく、比較が不可能であることを当然と考えるべきだ」
「ユーモアは、気分ではなく、世界観である」
堪能の一冊。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
『論理哲学論考』がちっともわからなくて悔しかったので、『論考』翻訳者の野矢茂樹氏の著作に7,8冊あたったあとで、本書を手に取った。
で、どうだったか。
これだけわくわくする書物にもめったにはお目にかかれない。そう思った。
野矢氏は東大の講義がてら3年の歳月をかけて原著を読み解いた。その成果を(400ページ近いけれども)たかだか数日で読むことができるアンチョコに仕上げた。これはなかなかに得がたいものである。野矢氏の著作は、基本的には、わからないことをわかり易く書く、ということにとことんまで心を砕いたものである。が、本書はそのなかにあって本当に珍しく、議論が沸騰してくると、ときどき全くわけのわからない「ごく普通の」哲学書になる。ここが野矢ファンにとってはある意味、とても面白い。
現象学に関する論述については(筆者は竹田青嗣のフッサール論が好きなので)ちょっと納得がいかない部分もあった。が、論理学と哲学と数学、無限論、という野矢氏の著作群の集大成という趣もあって、単なる解説書に終わっておらず、ウィトゲンシュタインの誤りを修正しつつ、野矢氏の『新・論理哲学論考』の構築が試みられている点、大変、読み応えがあった。
本書を読む前にぜひ野矢氏の『無限論の教室』と『入門!論理学』を読んでおいてほしい。本書に心からわくわくできること、請け合いである。筆者も論理学の魔力に魅入られた、ということかも知れないが。
ベルク&ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲 (Berg & Beethoven : Violin Concertos / Orchestra Mozart, Isabelle Faust, Claudio Abbado)
ベルクのヴァイオリン協奏曲はやはりすばらしい。頭の中に曲が完全に記憶されてしまっているので
今までいろんな演奏を比較してきました。
以下の方々の演奏が今まで一番好きだったのですが。
violin:クレーメル、チョン・キョンファ
cond.:ブーレーズ、小澤
しかし、残念ながらソリストが良くても指揮者が今一歩の場合とその逆の場合が上記のcdでは当てはまってしまっています。
今回のファウストとアバドは全体的にはもう一歩という気がしますが、部分的にすばらしいところもありますし、録音がいいので☆4です。
因みに一番新しいところでは、数年前のクレーメル+アーノンクールのライブは大変すばらしかったと記憶しています。
ところでベートーヴェンのほうは新鮮味がある演奏でこちらは☆5です。
バッハ:マタイ受難曲(全曲)
クレンペラーは宗教音楽を得意としていた。いや、得意としていたというよりもクレンペラーが創る音楽が、楽曲の精神を媒介する使徒たらんとする指揮者の全個性を刻印していると言ったほうがより正確かもしれない。彼の指揮したものを聴くと、クレンペラーだとすぐに分かるようなものが多く、それはどの曲に対してもその曲に適した表現をするのではなく、曲がクレンペラーによって一度還元され再び彼の全個性によって再創造されているからである。フルトヴェングラーもそうなのだが、しかし二人の個性は相反する。けれども、最も深い部分では二人の個性は一点に交わる。つまり、「精神」という点である。
この「マタイ」は晩年のクレンペラーの宗教音楽録音の最初に当たるものであるが、この時期のフィルハーモニア管弦楽団は絶頂期であった。クレンペラーの下では彼らの奏でる音楽が当代一流の管弦楽団に比肩する、もしくはそれ以上の高みにあったのは想像できるだろう。この録音の三年前(1958年)にはあの伝説的なリヒターの「マタイ」が録音され、クレンペラーはそのことを知っていたのであろうか。リヒターの演奏は厳格なリズムと拍節を基礎として、楽曲の本質を内面的に抉り出すものであるが、このクレンペラーの演奏は「マタイ」という殿堂と真摯に向き合う一人の巨大な個性によって表現されたものである。テンポは悠揚迫らず、曲によっては遅すぎるというものもなくはないが、巨大な楽曲での説得力の強さは他に比肩するものがない。
例として、冒頭合唱、第一部終結コラール、そして楽曲の終結合唱は大河の如く押し寄せる圧倒的な感動に襲われる。同じ事がすべての「コラール」にも言え、祈りの深さはリヒターのをも凌いでいる。「アリア」は遅すぎてもたれる曲も二、三あるが、逆に遅いがゆえに限りなく美しい演奏もある。例えばブルーノ・ワルターが絶賛したと言われる「ピラトの尋問」の最後の部分であるソプラノのアリアなどである。歌手たちは総じて素晴らしく、特に福音史家のピアーズ、イエスのディースカウ、アルトのルートヴィヒはずば抜けている。ソプラノのシュヴァルツコップは若干作為的な歌唱の部分があり、この純真な「マタイ」に合わないような気が私にはするが、悪いというほどではない。そして、最後にクレンペラーの非凡な個性がこの大曲をまとめ上げていることを言っておかねばならない。イエスの死の前と後では音色も含めて全く異なる色合いを帯びている。死の前では、死に向かうイエスとそれを見守る者たちの痛烈な悲しみや憤りが色濃く表現されているのだが、死の後は清浄なものになっている。そして、「イエスは本当に神の子だった」の部分では、リヒターのように内的なドラマとしてではなく、あくまでも一場面として簡潔に表現している。つまり、聖書に基づく部分では叙事的な演奏を行っているのである。この個々の楽曲の描き分けの素晴らしさもこの「マタイ」の一つの特徴と言えるだろう。
このクレンペラーの「マタイ」は単なるドラマを超えた偉大な宗教音楽の殿堂であることを私たちに教えてくれる遺産である。