朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)
中学生ころだったか、教科書に「黒い御飯」が載っていた。
三人の男兄弟の末っ子が、小学校入学前を回想し、父や家族との思い出を語るという作品。
「頬のこけた、髭をはやした顔、そして自分で染め直した外套を着て、
そろそろ、そろそろ、下駄を引き摺るようにして歩く父の影が、私の心へ蘇える。」
ある4月1日、父が突然、家の台所にある釜を使って兄の紺がすりを染め直し、
主人公が新たに学校へ着ていく服にする、と言った。
その翌朝。「綺麗好きの母が、あれ程よく洗った釜で炊いた、その御飯はうす黒かった。
うす黒い御飯から、もうもうと湯気が上がった。
『赤の御飯のかわりだね』
誰かがそんなことを云う。」
国語の先生が「この『赤の御飯のかわりだね』がもつ意味を、よく考えてください。」と言ったのを今でも覚えている。
「黒い御飯」は、文庫本でたった6ページの小品。
だが、表題となった「黒い御飯」についてのくだりは最終ページまで出てこない。
読者は表題を知っていても、内容との関係がつかめないまま読み進むことになる。
ほかにもこの作品集には、表題の趣旨が最後の方まで読み進まないと出てこない作品が多い。
「菜の花」「往来」「朝霧」…
それらの作品は読み進めるうち表題が何だったかも忘れてしまうが、
ある瞬間、「ああ、こういう意味で、この題がついてたんだ」と、ぱあっと広がる瞬間が来る。
読者はそこで文字通り“膝をうつ”。読者の心を掴んで持って行く描写力は本当にうまいと思う。
あと、この作者がうまいと思うのは、会話の描写。
簡潔だけど、人物がちゃんと描けている。
「往来」の、主人公と妻と2人の幼い子どもの会話は、無駄な記述がなく、
本当に実在の家族の日常会話を切り取ったように新鮮で、それでいて小説の味も十分出ている。
最近の作家も少し、永井龍男作品から会話描写の術を学んだほうがいい。
教科書に載った小説
店頭でタイトルにすっとひかれ、編者が「クリック」の佐藤雅彦さんだったので
すぐ決めました。期待を裏切りませんでした。
教科書に載っている話ってどうして面白いんでしょう。
お父さんから手紙を受け取る話、どばどば泣きました。
「ベンチ」では衝撃といっていいほどの読後感を覚えました。
「教育」を目的として選ばれた小説ですから一線を踏み外さない
内容ではあると思いますが、それぞれが不思議な力にあふれたお話だと思います。
ちなみに自分が学んだ教科書小説で一番印象に残っているのは宮沢賢治「やまなし」です。
中河与一/横光利一 (近代浪漫派文庫)
徒らに新奇を追うごとき文芸ジャーナリズムから一歩距離を置いた本シリーズの一書として、横光利一との合本でもいい、中河与一を選んでいることを是としたい。
突出して有名な「天の夕顔」以外は読まれなくなった作家だけに、今回の企画を喜ばざるをえない。この人の文学的原点は、短歌であることを知悉の上、歌集「秘帖」全歌を冒頭に掲載したのは英断であったと思う。小説家にとって、短詩型は余技であるので、作品紹介では重視しないのが普通であるが、普段目にしないものを提示してくれている。
横光との関連で言えば、横光がマルクス主義の文学理論と対立して、形式主義文学論の展開を行った際、これに同調して「偶然文学論」を主張した。本書には、「氷る舞踏会」「鏡に這入る女」などの短編の後に、「偶然の美学」と題する評論が載せられている。平板なリアリズムの不毛性に対する不満と豊かな想像の世界を切り開くものである。
本シリーズ「近代浪漫派文庫」直前の「保田與重郎文庫」の保田與重郎とは、肝胆相照らす仲であるは知る人ぞ知るであろう。日本の伝統的抒情・浪漫性を継承する数少ない人たちである。
日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)
新感覚派の旗手、横光利一の代表的な短-中篇をまとめた作品集。志賀直哉に私淑し川端康成を盟友とする横光ですが、真摯な思索を重ねて独自の作風を探り、彼らに匹敵する作品を発表しました。斬新な表現、実験的な試みには今なお新鮮さと説得力があります。
『日輪』『蠅』は横光のデビュー作。前者は卑弥呼をめぐる古代の男たちの闘争を独特なリズムの台詞と硬質な文体で描いた雄大な作品。面白いのですが、やや気負いと硬さが感じられます。後者は蠅の視点から微細な描写が積み重ねられるモンタージュ的な作品ですが、最後の数行で破滅的な結末へと集約し、目の醒めるような鮮やかさがあります。
『機械』はヨーロッパ心理主義文学の影響の下に書かれています。しかしその技法は慎重な考究によって厳しく鍛錬され、新たな問題を提起するに到ります。文章は一人称の「私」によって書かれているのですが、精密な心理描写によって客体化されてしまい、それではこの物語を報告する主体は何者なのだろう、と考えさせてしまう。「私」や「自由意志」といった概念の虚構性が肌で感じられて、ちょっと怖くなりました。
『春は馬車に乗って』『花園の思想』は著者の体験が核になったある種のサナトリウム文学ですが、このジャンル特有の青臭い過剰な詠嘆が苦手で、個人的には馴染めませんでした。ただし、両者は同時期に書かれていながら対照的な作風であり、終盤に「恍惚として」という言葉が互いに異なる意味合いを匂わせて用いられているあたり、最初から一対の作品として構想されていたように思えます。このように私小説的な主題を非私小説的な技法で表現みせるのは、やはり横光らしく思えます。
その他に『火』『笑われた子』『赤い着物』等。いずれも簡素でありながらどこかシュールで、著者の非凡さが窺われます。
新感覚派のみならず近代日本文学の歩みを知るには避けて通れない一冊。ぜひ一読をお奨めします。
モンキービジネス 2010 Summer vol.10 アメリカ号
今回の特集は、アメリカ。
冒頭の内田樹と柴田元幸の対談は、ボリュームもあって読み応えがある。
内田の『日本辺境論』の議論をベースに、アメリカという国の現在とさらには日本の現在について、考えさせられる内容になっている。
その対談の中でも触れられている村上春樹のインタビューも掲載されている。こちらは分量的にはあまりないが、村上春樹が米国の読者が見逃した作品について述べているのが面白い。
その他では、円城塔や古川日出男といった私の好きな作家の作品も掲載されているが、初めて読む浅尾大輔という人の「かつて、ぶどう園で起きたこと」という評論が良かった。ロスジェネ文学から、シモーヌ・ヴェイユ、マーク・トウェインまで取り上げている。