日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」
自分は女ではないから、その逆もそうなのかはわかりませんが、そりゃ理解できますよ。今まで男として生きてきて、何が一番楽しかったかというと、好きな女性とお付き合いしている時でしたと躊躇なく答えますよ。そのためには持っている金を使うのは惜しくもないし、国も捨てるし、故郷も後に出来るほど魅力があるのが異性である女性なのだから。実は自分も今KPOPのガールズグループにはまっていて、年甲斐もなく一生懸命に動画をみたりして心をときめかせています。
もし彼女らが万が一ありえない話ですが、自分と付き合ってくれるというのであれば、自分も国も故郷も家族も捨てますよ。そのありえない話がフィリピンパブなどで現実になるんですから、それはちょっとうぶな男であればイチコロでしょう。とても読んでいて笑えない話でしたし、彼ら困窮邦人に男として共感できましたよ。僕なら助けてあげたいと思ったし、個別に色々なケースがあるから、十把一絡げにして、馬鹿な人たちだと一笑に付せることは出来ませんよ。そういった男としての業や人間の深遠に迫る奥深さと読後の余韻が本書の魅力なのだろうとも思いました。
オーパ、オーパ!! モンゴル・中国篇 スリランカ篇 (集英社文庫)
近くて遠いモンゴル。 私たちと瓜二つの人々がそこで生まれ、普遍の営みを続けている。 たとえ言葉が通じなくても、かの地の人々の人々が発する息吹は自分たちに何かを語りかけてくるように感じる。 そう、言葉はいらない。 真摯な二つの眼と、一本の竿があれば・・・ たかが魚釣り、されど魚釣り。筆者の想いのすべがこの本には溢れている。
目的は魚を釣り上げること。だが、それが自然との闘いであり、また自然との出会いでもあること、そして自然にいかに接して行くべきなのかがページの端々から感じ取れる。難しい言葉はどこにもない。あくまでも自然体。それがこのほんのスタイルだ。
彼が、我々の忘れ去った自然との関わり方、その姿を釣りの形をとり語りかけているのも必然なことだったのだろう。 開高建はもうこの世にはいないけれど、彼がこの本で残した生き方を、私は忘れることはないだろう。 ページをめくるたびに、未だ見ぬ大陸の、大物が、優しい笑顔の人々が私を待っているような気がしてくる。
輝ける闇 (新潮文庫)
本作『輝ける闇』を書き上げた直後の41歳の開''氏は印象的な講演記録を残している。世界中の紛争戦乱地域を取材し数々のレポートを残してきたが、いわく、「ルポルタージュからは小説的なものを排除しなければならないが、いつの間にか入り乱れてしまう。ノンフィクションの感覚でフィクションは書けない。混乱し、書くのに苦しんだ」という。そうした苦悩の結実が、この『輝ける闇』だ。
一読して「フィクション」と前置きされなければわからないこの小説は、40年を経たいまでも異様な生々しさを放出している。主人公が感じる体温、身体からにじみ出る汗、情婦の吐息、草むらを飛び交う虫たち……。マックス・フリッシュの小説を思わせるようなジャングルの描写で繰り広げられる、開''氏の分身である主人公の、皮膚というアンテナを通した異生物(=戦場=ベトナム=ジャングル)との交信記録である。
開''氏は異生物との交信が得意なようだ。その典型が釣りである。世界中の釣り場という釣り場を渡り歩き、釣り竿と糸を通して魚という得体の知れない異性物との交信を行った。
開高氏の感覚にしてみたら、迫撃弾が飛び交い地雷原だらけのジャングルも、巨大なターポンやバラクーダが潜む大海原も、おのおのに大きな違いがないのかもしれない。つまり双方とも、異生物との交信の場として。
『輝ける闇』のラストシーンで、戦慄と共に戦場が描かれる。AK47の銃弾は降り注ぎ、木々や草々はなぎ倒され、主人公はドロドロの体で走り、倒れ、逃げ惑う。顔面蒼白で命からがら逃げおおせると、あたりは死体の山。
こういった描写ができるのも、少年時代に第二次世界大戦を体験した著者ならではのものだ。戦中派が減り、身体感覚としての戦争を知らない人は年々増え、世間には「平和ぼけ」という言葉が流れはじめる。しかし戦争とは悪であり、このような身体感覚は決して得てはならない。おそらく、開''氏はこの作品を書きながら、少年時代の体験に恐れおののき、そしてこのような体験は二度としたくないと心の底から思ったはずだ。
開高氏のような、世界中を渡り歩き、あらゆる人種や土地を抽象的に見ることのできる人物にとって、戦争ほどばかげてナンセンスなものはあるまい。この作品は一流の反戦文学でもある。いまだからこそぜひ一読をおすすめする。
アルビノーニ:アダージョ
3.11震災の折、あまりふさぎこむような曲は聴きたくないものだが、
これは別格。
内面まで静かに浸透してくる旋律は、痛みや悩ましさを越えて、
むしろ清々しい。
むかし読んだ開高健のくだりに、アラスカで釣行のジープの中で、
ラジオから流れたこの曲に、自身でもあやしみたくなるくらい、
涙が出てきて困った、というのがある。
素直にうなづける。
空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む
単に探検本だけでなく、チベットのツアンポー峡谷という秘境に取り付かれた経緯、探検家が挑んだ史実を振り返って、きっちりと目的の位置付けを行っています。
それだけではなく、ツアンポー川をカヌーで挑戦し不慮の事故に遭った事件の顛末を関係者からのインタビューを交えてルポルタージュしています。
そして、著者自らが魅了され、身を挺して挑んだものすべてを語る。
それは、三度に亘りトライしたツアンポー峡谷の壮絶な、熾烈な、死に直面するまでの探検を、鬼気迫る勢いで臨場感たっぷりに伝えています。
言うなれば、このチベットのツアンポー峡谷を舞台にして、いろんな角度から幅広くアプローチし、探検家なるもの、更に言えば、ひとの生き方というものまで語り尽くしたものです。
たった一度の人生だから、できるときに悔いを残さずやっておこう、それが死に直面するような過酷なものであろうとも、自分自身が目指した最高位の欲求を満たすべく、平穏な暮らしを捨ててでも、何としてでもやり遂げたいというのが著者のひたすらな思いであり、形は違うかもしれませんが、その考えに共感させられます。
早稲田大学探検部出身としては、高野秀行さんが多数出版されてお馴染みですが、高野さんとは違ったスタイルがここにはあります。
秘境を探検をしてきたという武勇伝ばりのエピソードを紹介するのではなく、ここには自然と対峙するひとりの人間像が浮かび上がっています。