不完全燃焼/スイッチが入ったら
タイアップ作であるアニメ『神様ドォルズ』原作者からのアーティスト指名による本作。
よい意味での石川智晶本人のクセが肯定されつつ迸り出ているという印象がまずあり、
それはこれまでのソロ活動が一通り定着し、石川智晶という一つのアーティスト戦略が
順調に内外に浸透しているということが感じられる、タイトルとは真逆の本作「不完全燃焼」。
楽曲にまつわる諸々がCD封入の紙片に『神様-』原作者である、やまむらはじめ氏
との対談にて語られているが、アニメのみ視聴で原作未読であるので個人的には、
憶測のみでのレビューということになってしまうだろう。が、それでも『ぼくらの』以来、
OPとEDともども手掛ける作品そのものへのアプローチと石川自身の持ち得る
オリジナリティとが幸運とも思えるよい出会いを果たした、再びの一例であろう。
特に、ここに至るまでアニメタイアップというフィルターを一度通すことで、かえって
自分自身を存分に出すことができたという石川智晶自身の立ち位置をも再確認。
誰しもの心の内にあるモヤモヤを一種確信犯的な言葉を容赦なく投げつけることで、
曝け出す――いわゆるそんなカタルシスをもってして、予定調和なままのしたり顔で
通り過ぎてゆく現実という永遠の合わせ鏡を叩き割る。最終バス、飲みかけのペットボトル...
何事もないはずの情景に滲み出る、暴発寸前のサビ前のやるせない静けさ。ある意味
とても自虐的な晒し行為にも思える思い切った歌詞の爆発感が、タイトル通り切ない。
ラフに掻き鳴らされるラテン系アレンジとのミスマッチバランスも文句なく耳触りがよい。
対談からも感じたが、やはり同世代同士だから感じるものも多いのではないかと思う。
それが両者の作風に無意識のうちにことごとく表出している感がある。双方の描く主人公が、
そのまさに実質的な姿が、ここに結実している。逆に不完全燃焼では到底事足りない、
そんな本音が双方の作品から如実に見え隠れしていると感じる。「厄介者」と「可能性」は、
ある意味背中合わせの存在で、そういったものを背負わされている自分自身が望む
臨界点での異様な高揚感と同時に忍び寄る、どうしようもない悲哀と寂寥感...
そんな、殆どやけっぱちに漂う感情に誰しも瞬間、息を呑まざるを得ない。
同じ意味でc/w「スイッチが入ったら」も、文字通り石川智晶らしいキャッチーさに
満ちている。どこか息苦しいほどの澱みの中で警告を発する、だからこそ己自身を忘れ、
自他の境界を越えてどこまでも昇り詰めようとする自我の発露という怖さは、OP作と
見事に呼応する。余談だがソロ活動以来アレンジャーを務めてきた西田マサラが本編
アニメにて音楽を担当していることも特筆に価するだろう(特に例の案山子の起動音
メロディは石川智晶ファンならば必ず反応してしまえる遊び心が楽しかったりする、笑)。
神様ドォルズ 第1巻 [Blu-ray]
原作からして初期段階で「やりすぎ」た感が否めない作品だった。
特に阿幾の行動は、過去に何があったとしても許されるレベルの事ではなく、「やりすぎ」てしまっている。
物語上、完全な悪役としてしか彼は存在し得ない。
アニメオリジナルであったとしても、もしもアガペー的「許し合う」ような内容にしてしまったら
かなり陳腐で今更なラストになってしまうので、謎は謎のままでもこれで良かったと思う。
そして、この案山子という木偶は、個人所有としては力が強く
個々のトラウマや過去などを見せられても、その行動に同情は難しい。被害が大きすぎるのだ。
かといって、ネオランガのように自衛隊が手出しできないほど強くもなく、かなり微妙なラインにいる。
なぜ「アニメにすぎない」ものに、このような現実的な事を書くのかと言えば
原作もアニメも、基本にあるのが「日常」だからである。
警察などの国家機関も出ているし、大学の仲間も関与してきている。
日常からの非日常は、富野作品も多いし、多大な影響を受けているのだろうが
あれはSFやファンタジーだからこその部分が大きい。
原作もアニメも、描きたい事はわかる。
ネオランガ的展開や、七夕の国的な展開なのだろう。
わかるのだけど中途半端です。
アニメスタッフは、できる限り自然に、ライトに、日常を展開しようとしていますし
その試みは成功していると思います。
アニメスタッフが良くても、原作がダメだとどうしようもない好例です。