徹底抗戦!文士の森
非文学を測るためのモノサシで文学を測り揶揄する言説に対して著者が文字通り徹底抗戦し、あらゆる発表機会を捉えて撒き続けたアジビラ的文章の集大成。どのページからも、「勝利だよ、勝利だよ」という呟きが聞こえてくるようだ。主要攻撃対象は大塚英志。
文学の牙城たるべき名門文芸誌の編集者が、自らの存在理由を毀損する言説を嬉々として城内に導きいれたことに、作家が怒るのは理解できる。大塚が文芸批評畑の最前列に立ってる現状は倒錯していると、私も思う。
なるほど著者の喧嘩っぷりは痛快だ。けどそれは本当に、見込みのある戦いなのか?
著者は大塚的言説が受容される素地を作った源流として柄谷行人を名指し、本書所収の「反逆する永遠の権現魂−金毘羅文学論序説」で明治以降の近代の枠でしか文学を捉えようとしない視点に反撃している。それはそれで一定の説得力を感じたが、しかし有り金すべてを張るのは躊躇われる。
柄谷への直截な批判に比して、蓮實重彦評価を曖昧にしているのはナゼか? 何度か好意的に言及される金井美恵子や、ライバル視しているらしい高橋源一郎らの小説に対する評価も不明確。また著者が親しいらしい加藤典洋や巽孝之、小谷真理らの文学観は、本当に著者の立場と整合的なのか? アジビラにそこまで求めるなと言われればそれまでだが、だったらこの本は所詮アジビラに終わるしかないでしょう?
加えて、この本には誤字脱字が多すぎる。句読点や括弧の用法が独特で、校正しづらい文体ではあるが、著者校はどうなっていたのか。それとも、アジビラごときのチェックに費やす時間はないってこと? 曲がりなりにも売り物でしょ…「曲がってない!」って叱られそうだけど。
金毘羅 (河出文庫)
話題になったからでなく、今生きている作家の中で一番好きで、著作は全て読んでいるので、読んだということなのだが、今までの彼女の集大成というべき傑作だった。
ついでにいうと、三島賞に続き、芥川賞受賞コメントで「文学の神様に感謝したい」と言っていた意味が、この作品でよくわかった。
純文学論争もよかった(現存日本人作家の中で純文学を背負ってたっているのは彼女だと思う)が、フェミニスト文学者としても一流だと思う。
「金毘羅」でも、以下のようなくだりに、眼からうろこが落ちた。
「「本当は男」である女はさまざまな課題を課せられるだけではない。現実の差別社会の矛盾を全て引き受けながら、その矛盾から一切眼を背けていなければならない。つまり、魂が壊れていなければ成立しないのです」
愛別外猫雑記 (河出文庫)
雑司ヶ谷を舞台に、最近は地域猫という言い方が確立しつつある外猫をめぐっての壮絶なバトルの記録である。私もかなり外敵と思ったヤツには戦闘態勢に入る人間だが、ここまではできないだろうなーと、改めて尊敬の念を深くしてしまった。結局は自分で飼うことになり、郊外とはいえ一戸建てを買ってしまうあたりも、真似はできないために憧れてしまう。すごい人です、笙野さん。
それにしても、ここまでしなきゃ猫が生きていけないという日本の社会、今さらだけど、どこかが間違っている。「やはり僕たちの国は残念だけれど 何か大切なところで道を間違えたようですね」byさだまさし。
金毘羅
一人称の語りは、作者がその目線に降り立ったところで語る地平目線であり、マイノリティー(社会的弱者)の世界などが描かれることが多いが、この作品はそうでありながら、主人公は自分のことを金比羅という神だ言っている設定がまずぶっとんでいる。主人公が神になっちゃって、神がどういう歴史をたどってきたかを語り、ついでに(おそらく作者の)苦難の歴史も語り、小説ってこういう手法をとれば何でも有りだなと、これをやろうと思った作者に感心した。語り手と作者は別者であるという前提もこの小説はなくて、ところどころに語り手である主人公と作者笙野頼子はイコールであるというのも、こんなの有りだろうか、と思ったけれど。でも、そうとう作者は追いつめられた状況でこれを書いているということはわかった。
母の発達 (河出文庫―文芸コレクション)
チュニジアの劇団による母殺し未遂事件下敷きの芝居を見た事がある。 長男を熱愛する母の歓心を買おうと母から奴隷的に支配される次男の主人公、家風に無頓着な長男のドイツ人嫁に子供じみた反抗をする母…と、初めは歪なある一家の物語だったのだが、唐突に役を離れ棒立ちした俳優達による"歴史の母… 豊穣の母… 飢餓の母… 憎悪の母… 慈しみの母… 或日台所で泣いていた後ろ姿の母… "と読経のような母尽くし唱和のエンディングに、"母"の意味が一気に拡大、圧倒された。 「母の発達」も小話による母尽くしが登場。ポップでナンセンスな笑いに満ちたこの小説の"母"も、作者の分身的主人公を抑圧し続けた母を超える広がりを合わせ持つかと。それは要するに我々を生むが束縛し続ける土壌のようなもの。 この作品はそんな母の解体神話であると同時に、作家笙野の創造の神話でもあるよう。言葉による母の増殖補助には作家の創作活動を感じ、それに奔走する主人公への母の叱咤激励の幾つかに、作者の自身への励ましや戒め自負を感じた。 子はなくとも母は母…マザコンも子なし女のコンプレックスも吹き飛ばすいい言葉だ。