まなざしの地獄
見田宗介が書き残したモノグラフの再版。犯人が眼差しの地獄から逃れようとした過去から、眼差しの不在に耐えられない現在へ。この社会変化をどのように理論化するかが問われている。見田、大澤ともに秋葉原の無差別殺人を、現代の非実体的な抽象的システムへの反乱であると考えている。これ以上、匿名の「誰でもよかった」犠牲者を生み出さないためにも、いまここでの生き難さの原因を、強靭な思考力と分析力で提示することが必要だろう。あまりに強すぎる日本人の自己責任感へのしがみつきが、このシステムに対する批判的分析を妨げ延命させているのではないか。この再版を契機に、半端な構造改革を超え、抜本的な変革への期待が急激に高まることを期待したい。
裁かれた命 死刑囚から届いた手紙
事件を担当した、元検事の心に引っかかっていた過去の死刑囚事件を著者が過去をたどってひも解いていくドキュメンタリーである。ドストエフスキーの罪と罰をしのぐ罪と罰を問う、ドキュメンタリーである。このストーリーがこんなにもドラマチックな終息に展開するとは思わなかった。これは実際にあった話なのである。著者は執拗な追跡調査と膨大な資料にあたって真相に迫っていく。その労苦と才能には頭が下がる。まぎれもない名著である。
裸の十九才 [DVD]
実際に起きた事件(1968〜69年)をすぐさま映画の題材として取り上げるなど、まだまだこの当時(1970年)の日本映画界には冒険心と活気があったと言えますし、低予算の独立プロ映画でありながら、付け焼刃のやっつけ仕事感がまるで無いなど、さすがに映画撮影所育ちのプロの仕事ぶりは一味もふた味も違うと感じます。
新藤兼人さんの映画は、最前衛のぶっ飛んだ部分と、オーソドックスな古めかしさが同居しているようなところが面白いです。
この映画も、映像だけみると、「最近の若い人が作った映画だ」と言われても納得できてしまうほどの瑞々しさです。新藤さんは黒澤さんと同世代ですが、同年封切りの「どですかでん」での黒澤さんの衰退ぶりを思えば、新藤さんの若々しさはひときわ輝いて見えます。
一方、「青春=故郷=母校=校歌」というなんとも古めかしいスパイスを効かせながら、「親子の情愛の欠如」に事件の解答を求めるあたり、「素材は、とにかく料理してから提供する(素材を、素材のまま放り出さない)」という昔気質の責任感なのでしょうが、「略称連続射殺魔」での足立さんと比べると、やはり古臭いなあと感じてしまいます。最後の面会室での、母親役・乙羽さんの大熱演など、かなり鬱陶しいです。
最も印象的だったのは、車で移動中の主人公(原田さん)が、この時代に多く見られた学生のデモ隊に遭遇して停車を余儀なくされ、「急いでいるのに邪魔しやがって」といった顔で舌打ちする場面。こういう場面をさりげなく挿入するところがいいですね。生活に追われる庶民にとって、天下国家を論じる学生のデモなど、恵まれた子どもの遊び程度に過ぎません。しかしその後すぐに、主人公は、切羽詰った挙句に社会からスポイルされ、犯罪者となって、デモ隊が対峙していた国家から追い詰められる存在となってしまいます。デモ隊を苦々しく思う庶民と、共に立ち上がらない庶民を小バカにするデモ隊。天下国家の為政者たちは、庶民や学生の怒りや焦燥感などどこ吹く風で、下々の分断をせせら笑っています。脱原発を訴える都会の知識人、原発から恩恵を受けている周辺地域の住民たち、この期に及んでもなお利権を守ろうとあの手この手で画策するナントカ村の住人どもの、三者関係にも当てはまる構図です。
木橋 (河出文庫)
裁判員制度導入にあたり、有名な「永山基準」の元になった筆者の作品を、ぜひ読んでおきたかった。 一気に読みきった。印象に残ったのは筆者の幼少期の痛いほどの魂と腹と知識の「飢え」だった。また無知と暴力に満ちた家庭に育った筆者が、弱冠19歳で4人もの尊い生命をライフルで奪い獄中に入って後、初めて貪るように本を読み学んだであろう文章力の確かさと、長年目にしなかったはずの風景スケッチの緻密さとにも驚嘆した。罪を犯す前に、何とかならなかったものか、してやれる事はなかったものか、と繰り返し呟かずにいられない。 筆者の死刑判決・執行は、私はその判決文も読んだが、惨めな生育歴を考慮しても、罪の重さを考えれば、納得に値すると思った。しかし裁判員制度が始まる前に、この本を読んでおいてよかったと思う。読まずに裁く立場になり、人を裁いたら、多分私は生涯後悔しただろう。最初は反抗していたが、死刑決定後、学ぶことに救いを見い出し、獄中で穏やかに執筆を続け、しかし執行時には再び暴れたという、破滅的な筆者の人生。彼は「心のアバシリ」に、死刑という形を取ってでも、どうしても帰らずに、いられなかったのだろうか。