その1(紙ジャケット仕様)
これは本当に素晴しい作品。かつて横浜からはゴールデン・カップスが登場し、コテコテの京都ブルースとは一味違う「ハマのブルース」を世に広めたが、そのカップスにミッキー吉野が加入するまで音楽的支柱を担っていたのがこのエディ藩だ。そのエディ藩が74年に発表した、オリエント・エキスプレス唯一の作品である。このアルバムはブラスセクションを大胆に導入し女性コーラスを加え、ファンキー且つR&Bフレイバー溢れる非常に味わいのあるアルバムとして「幻」の存在だった。とにかく今風の「緻密さ」というカラーは全くなく、その“ゆるさ”と余裕のノリが圧倒的な存在感を醸し出している。久保田真琴&夕焼け楽団的な徹底したバタ臭さまでは行っていないのがまた横浜的であり、これはジョン山崎のライトなVoに負う部分も大きい。エディ藩は驚くようなテクニックをこれ見よがしにひけらかすギタリストではないが、スティーヴ・クロッパーのような味わい深いギターを聴かせてくれている。サザンの登場以降、横浜は「湘南サウンドの発信基地」的にお考えの方も多いと思うが、実はこんなに素晴しい独自のカラーを持つ「ハマのブルース」の生きる土地なのだ。これは明らかに“文化”であり、継承者を育てながら守ってもらいたい「無形文化財」である。
ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム パーフェクト・エディション [DVD]
この商品は以前購入したことが、あるのです。でも一枚がどこかにかくれんぼしてしまい、出てきてくれません。ずっと気になっておりましたが、再度購入するのも馬鹿馬鹿しく悩んで数年がたったある日にこの広告を見つけて安いこともあり購入に踏み切りました。思い切って買って本当に良かったです。通して観て新発見もありました。平尾さんが故人になってしまったこともありますが、貴重なものとなりました。長く現役を続けてこられた彼らの生き様が現在進行形で活写されており、ライブ映画という一面だけでなく、人となりも興味深く見ることが出来ます。この時代に音楽に興味を抱いた全ての人に見て戴きたいドキュメントです。カップスに留まらず周辺の人達にも温かい眼が向けられている所がこの作品の特徴と言えるでしょう。当時洋楽が入って来るのが一年遅れなんか、当たり前の状況で、彼らを通して米英の音楽事情を知る意味はとてつもなく大きかったのです。老若男女に観て貰いたいです。そこには金儲けも癒しも勝ち組も負け組も人の為なんて卑しさもありません。ただ音楽ロックに対する愛情
だけが溢れています。本当の愛やセックスや思い遣りが生身として写っています。是非ご覧ください。
ライブ帝国 ヨコハマ・ブルース・ストーリー [DVD]
今から20年以上前のまだビデオがなかった頃のクリエイションの映像がDVDで見れるとは思いもよりませんでした。当時Fighting80'sは和歌山放送で放映されていましたが、このDVDに収録されている回の放送は記憶にありませんので、見逃していたのでしょう。ロンリー・ハートはTV主題歌で有名ですが、それよりは初期の名曲TokyoSallyと私が一番好きなNew York Woman Serenadeにおける竹田和夫のストラトにハムバッカーを搭載した太くマイルドな音色のギターと黒っぽいボーカルが絶品です。さらにボーナストラックは73年のものということですが、昔のファッションとレスポールが超かっこいいです。エディ藩も悪くは無いですが、できればクリエイションの曲(特に初期のもの)をもっと見たかったというのが正直な感想です。ぜひ、第二弾を出して欲しいものです。
ベイサイド・スウィンガー(紙ジャケット仕様)
これはまた大変レアな1枚がCD化されたものだ。これが爆発的に売れる…とはとても思えないが、こういう企画のCD発売には大賛成だ。バークリー音楽院を卒業し凱旋帰国したミッキー吉野はゴールデン・カップスに参加したが、カップスでは彼自身が理想とした音楽をクリエイト出来なかったのではないか。カップスは個性の強い職人の集りだったため、若いミッキーは遠慮していた部分があったものと思う。カップス解散後はミッキー吉野グループを結成し、郡山のワンステップ・フェスティバルに参加。このバンドがゴダイゴへと発展したわけだ。
このアルバムはミッキー吉野グループからゴダイゴへと遷り変わる時期に、かつての朋友エディ藩と共に製作したアルバムである。一応エディ藩がリーダーという位置付けとなっているものの、中身は明らかにミッキー吉野のカラー満載。横浜の香り漂うハイセンスなブルースを基調としつつ、アメリカ西海岸のカラリとした色合いのアレンジが随所に見られる「洗練されちゃったハマのブルース」という感じ。妙に明るいイメージに仕上がってしまったという印象がなくもない。バックを務めるゴダイゴのメンバーは確かな技術を披露しているが、この時期のミッキーは、後に現われてくるエレクトーンを駆使して「これでもか」と言わんばかりに和音で責めてくる色濃いプレイをみせてはいない。ギターの浅野孝巳もこの頃から既に巧みなギタープレイを聴かせてくれているものの、エディ藩とは明らかにタイプは違っており、この2人の組合せは相容れていないような気がする。バンド名が示す通りの典型的な「スーパー・セッション」のパターン。彼らが彷徨っていた頃のほんの一瞬を捉えた貴重な記録としては、持っている価値はある。