孤独な群衆
「孤独な群衆」は,D・リースマンの名前を社会学史に刻み付けた著作と言えよう。日本でも、高度経済期から生活の形式が変化し、都会へ都会へと人々が集結し生活が集中する中で、一個の人間から、孤独な群衆への顕著な変化が起こってきた。人口割合から謂えば、日本のひと昔前の生活は、農村が基盤であって、そこでは、都会に比べ共同体としてのつながりは濃密な、むしろ、息苦しいほどの干渉と、しきたりが強制されかねないモノがあったであろう。
機械化される以前の農業は、共同体で対処する以外に、進める事が出来なかった。効率が悪かったのである。農繁期には、家族だけでは田植えの植え付けや刈り取りは、中々困難であった。また地主や小作と言う資産関係もその様な強制をより一層作り出したであろう。工業が隆盛に向い、工業製品が大量に輸出され、外貨を稼ぎ出すと、次第に農業はその重心から外れて行き、日本文化の基盤としての地位さえ失われてゆく、池田内閣の高度成長政策は昭和35年に始まったから、柳田國男はその始まりの時期に亡くなった事になる。日本文化を民俗学と言う観点から探求してきた柳田は、生きていたらD・リースマンの「孤独な群衆」を、果してどう読んだであろう?工業化社会の特徴は、他者志向型の社会である。そして人々は所有欲を煽られて、物質的豊かさを志向する社会である。三種の神器(カー、クーラ、カラーテレビ)は、どんどん新種が出現する。柳田の追い求めた日本人のたましいの故郷と庶民の生活の歴史は、高度成長期以後確実に変貌した。こういった社会の「意識」が是から先、どんなものに行き着くのか、今の時点では分からない。フランクフルト派の社会研究、梅棹の文明の生態史観、ベブレンの階級理論、がどこまで参考になるかどうかも分からない。孤独な群衆は、一塊の群衆で居ながら、何の紐帯も持たず、ただ砂粒のように乾き個々の関係を持たない。そして助け合う事を含めた連帯を失って居るように見えるのは小生の錯覚であろうか。若い人に是非読んでほしい、社会研究の端緒となる本です。
群衆 - 機械のなかの難民 (中公文庫)
明治以降の国家主義社会の中で、機械として扱われる大衆像を漱石、啄木や大杉栄の作品、言動を通して描く画期的な論考。特に夢野久作の『ドグラマグラ』の評価は斬新。その正統的な嫡子として中井英夫の『虚無への供物』を位置付けるくだりも非常に示唆的。さすが都市論の傑作『乱歩と東京』の著者だ。
オフコース・グレイテストヒッツ 1969-1989
70年代は僕が10代を過ごした時代なのですが、オフコースの全盛期と重なりさすがに知っている曲ばかり。
当時、どちらかというとオフコースはあんまり好きじゃなかったんだけど、まわりの女の子が良く聞いてたっけ。青春だったです。
ただ懐かしくて、昔のいろいろなことを思い出して不覚にも涙ぐんでしまいました。あのころのみんな何してるかなあ。
変にアレンジしていなくて、その当時のシングルそのままというのがいい。
「みんなの意見」は案外正しい
日本語タイトルから受ける内容の印象と違って、
本書は、優れて社会経済、哲学的な論考のエッセイで、
知的好奇心を相当満足させてくれます。
いわゆる「烏合の衆」が各人が個別勝手に判断している
ような状況は、経済、社会、生活の中に相当多く見られる、よく
ある場面ですが、そのさまざまな場面について、社会学、心理学、
経済学、政治学、行動力学、交通社会学、生物学、その他
博識を駆使して、しかも、平易な文章で、読者をぐいぐい引っ張ります。
果ては、インターネット、グーグル、リナックスなどの話題も
入れながら、「烏合の衆」の知恵について、ここまで高邁な考察と
深い示唆に富んだ分野に仕立て上げた著者の力量に脱帽です。
ただし、著者は、「烏合の衆」の判断が常に正しいと主張している
わけではなく、結果としてそうなる場合に対する摂理への驚異と
科学的分析と畏怖の念を丁寧に考察している、という本です。
さらに、日本語訳もかなりこなれていて、大変読みやすいです。