第七の封印 (ハヤカワ文庫SF)
「これは悲劇なのだ」とか「これは喜劇だよーん」とか、音楽にたとえるとその曲の「調」というものがありまして、大前提となってメロディーが進んでいくわけですが、この作品はその調が途中で二度ほど変わります。つまり三つの異なった作品が混ざっていると思います。
そしてこの作者はイントロが大変うまい。つかみのうまさは異常です。これだけの尺のある話を「読ませる」仕掛けが冒頭で一気に提示され、おお、どうなるのだ!?と興味を惹かれて読み進む。
どの作品も概してそうで、冒頭の盛り上がりに比べると中ほどまでのコード進行と、終わりにさしかかってからのネタバレ、広げた風呂敷のたたみ方までがダルく感じられるほど。
そしておそらくは「本当に言いたいこと」であるはずの最後の最後がどの作品もそうですが、あまりにも駆け足過ぎてもったいない。ボリュームを逆にすればいいのになと思います。
作者が描写してくれる摩訶不思議、奇妙奇天烈、壮大きわまりなくトリッキーな「そうくるか!」が満載の「(他でもない)この世界」にさんざん馴染んでわくわくして、最後の最後に「えっ?」と肩透かしをくわされる気がするのは、作者にだけ見えているこの世界の構造の説明がもっとほしいから。
話を終えないでほしい、もっとこの世界に生きていたい、そう切望してしまうから。
このSFを何と評せばいいのでしょう。解説者は苦しまぎれに(?)中世信仰譚にたとえて数字に着目していますが、それですら一面でしかないという、あえて言うなら問題作。
実生活でもキリスト教のとある宗派の熱心な伝道者でもある作者のSF世界は「キリスト教」が常に常に前提に存在し、異世界の生命体との接触では必ずそれが興味の焦点になっています。
作者のイマジネーションの本流と力強さがそれらの規範を躍り出て自由にはばたこうとしては、ふっと翼をたたんでしまう・・・そんな思いすら失速とも失敗とも感じないのは「この話はこの人にしか書けないだろう」という確固たる思いが読後感に湧き出るからです。
批評もつっこみも多分いらない。「この世界」をありのまま楽しめればそれでいい。
そんな風に思ってしまう、これはクラフトワークです。
第七の封印 [DVD]
スウェーデンが生んだ巨匠イングマル・ベルイマンの名声を決定付けた作品として知られていますが、それも納得の奥深さ。生と信仰、死と恐怖という人間にとって絶え間なく続く悩みが中世社会を舞台に恐ろしくも気品高く映像化されています。
名優マックス・フォン・シドゥ演じる騎士アントニウス・ブロックが従者ヨンスとともに十字軍遠征から故国に戻り、信仰の意味を問いながら様々な人々と出会い行動を共にする過程を通じて死の問題が切々と語られます。特に効果的なのは「死」そのものが人のかたちをとって現れ、騎士を精神的に翻弄するあたり。人間と死との葛藤がチェスゲームのかたちで表現されることで本編のメッセージがよりクリアに象徴化されています。死神を演じたベンケ・エケロートの上品かつ不気味な演技が利いています。
死の恐怖を一辺倒に語るだけではなく、しがない旅芸人親子の微笑ましい生活を通して生きることの喜びや、旅芸人の座長と浮気する鍛冶屋の女房と亭主とのやりとりを通して人生の滑稽さを挿入しているところも本編に奥行きのある映像芸術としての厚みを加えた要因であると思います。そして最後には死さえも、敬虔な気持ちによって迎えられるべきものであるという示唆がなされていることに一種の救いを感じることができます。
ベルイマン監督の思慮深い演出がとらえる人間にとって極めて重要で深遠な精神性。名撮影監督グンナール・フィッシェルによるコントラストの美しいカメラワークの助けを得てひときわ雄弁に語られる、これは北欧映画芸術の一つの最高峰であり、野心的秀作の名に恥じないフィルムであることを強く感じます。
FR.シュミット:オラトリオ「7つの封印の書」
2000年4月。ウィーンムジークフェラインでのライブ録音。
アーノンクール最初の20世紀作品の録音であり、彼が演奏する数少ない彼の同時代の音楽である。
この曲は、シェーンベルクを体験した世代のオーストリアの作曲者:シュミット(1874ー1939)が、バッハ以来の宗教曲の伝統を踏まえた上で、両大戦間の絶望的状況と明日への希望を、ヨハネの黙示録にテキストを求めてオラトリオとして書き上げたものである。音楽内容は、多少折衷的な印象もあるが、それはバルトークやストラビンスキーの最盛期のみを基準にした評価であって、それらに対して冷静な評価の出来る今日、宗教的世界を描くという目的には適切なスタイルの採用であると思う。日本では有名な曲ではないが、20世紀前半に作曲された宗教曲の最高峰'!形成する作品であることは疑いが無い。
この曲が描くのは(アマゾンのコメントにある)キリストの受難物語ではなく、ヨハネの黙示録である。したがってサタンと戦う神の子としてのキリストと、この世が終わりに至るまでを描いている。音楽的スペクタクル風の、ある意味20世紀の後半の映画音楽を先取りする、雰囲気もただよう。
巨大な曲を完全に分析制御した、たたずまい良く、鮮烈な演奏である。我が国でも国内発売と同時にアーノンクールに批判的な評論家も含めて高い評価が与えられた。
この指揮者一流の、徹底的なアナリーゼを経た上での再構築であるため、テクスチュアの明晰さと曲の威容が矛盾せず並存する。こけおどしの音響は皆無であり、過度の熱狂・おどろおどろしさだけに陥ることなく、静謐と!厳を豊かにたたえた、宗教曲として模範的な演奏となった。。
独唱陣は優れた宗教曲の歌い手を揃え、コーラスも歌い慣れた雰囲気であり、指揮者の意図に機敏に反応している。とりわけ聖ヨハネを歌うクルト・シュトライトは印象深い。バッハ作品に要求されるようなクオリティーを維持しながら、適度な豊かさもあり、聖ヨハネ(もともとワグナー歌手を想定して書かれたらしい)の宗教的敬虔さを十全に表現した。この人のマタイの福音史家を是非聴いて見たいと思う。
なお解説書に、この曲と黙示録の宗教的な解説を、指揮者の兄弟のフィリップ・アーノンクールが簡明に行ってくれており、国内盤解説にも翻訳が掲載されている。こういう宗教的な文章は外国語では読みにくいので、これは国内盤の値打ちだろう。
イングマール・ベルイマン コレクション [DVD]
「狼の時刻」、「恥」 「蛇の卵」
どんな内容なんだろうか?ベルイマンの作品だよな。「恥」は見当がつくが、あとの二つは、ベルイマンらしくはないタイトルだと思いました。
しかし、3作品とも佳作です。ベルイマン監督という先入観がなく観ることができたなら、良い映画だと思うことができるでしょう。
「沈黙」などの監督と思うと、ちょっと驚くかもしれません。
私は特に「狼の時刻」(1968)「蛇の卵」(1977)を薦めます。前者は、純粋なるホラー映画として、後者はドイツの表現主義へのオマージュと共にお金かかけると、ベルイマン監督はこういう映画もできるという意味でです。この2作品は本当に素晴らしい。
「恥」も「人格の崩壊」という意味では、ベルイマン監督、本来のテイストが味わえる内容です。各作品、コメンタリーも入っておりますし、監督、俳優のインタビューもあるので意外とお得です。さらには、特に「狼の時刻」「恥」での秀逸なるオーディオコメンタリー(映画研究家マルク・ジェルベ氏)は拝聴に価するものといえます。
最後に、購入のきっかけを作ってくれた、レビュアーのfwiw6180 さんに感謝いたします。
未解決―封印された五つの捜査報告 (新潮文庫)
本書の推理がどこまで真実に近いのか検証する術を、私たちほとんどの一般人は持っていないので、どれだけ真相を明らかにしたかという点で本書を評価することは困難だろう。だからどれだけ納得できる方法で、公開情報のなかの不自然な点と点を結びつけていくのか、背後に広がる大きな闇をどれだけ固有名詞とともに明らかにできるのか、読者は著者の組み立てた仮説をただ追いかけることしかできないが、その推理に一定の合理性があるからこそ、著者は読者を獲得しているのだろう。
本書の中でも、ライブドア事件の渦中、懐刀の野口(エイチ・エス証券副社長)が沖縄で不自然な自殺を遂げた(’06)のは記憶に新しいだろう。
当時のライブドアは大規模株式分割やMSCB発行など、新しい手法を駆使した資金調達で市場を賑わせていた。が、ある日特捜による捜査がはじまり、一気に堀江はじめ幹部が逮捕され、ライブドアという会社の成長も止まる。堀江の実刑は確定したものの、結果的に粉飾決算の規模としては日興証券やオリンパスに比べて小さく、いろんな意味でライブドアという企業の栄枯盛衰が市民にとっては理解を超えていた。
本書の言うように、株式市場が堅調であった当時、市場という賭場で裏社会のシノギが活況だったと捉えるのが合理的だろう。そのシノギの窓口がライブドアという企業であり、その取りまとめ役が野口であった。野口が裏社会の逆鱗に触れたか不要になったかして、沖縄で消されたと考えるべきだろう。妻が絶対に主人の持ち物ではないという服が落ちていたり(それを家族以外の誰かが警察に取りに来たり)、非常ベルが二度なったり、ためらい傷らしきものが利き腕の手首にあったりと、不自然極まりない状況を「自殺」と早々に判断した警察にも疑問が残るが、ライブドア周辺の紳士たちをみると、消されるべくして消されたという状況には納得がいく。