男流文学論 (ちくま文庫)
男性は逃げますね。逃げなかったらおかしい。
なんせ女性作家の本なんて殆どの男性は目にはいらないのですから。
ましてや本書となると。
男性の、特に特殊な職業「作家」さんたちの女性の種類は「夢の女」と「過去の女」の二種類しかないのかなあ。不思議です。
唯一、高橋源一郎氏だけが本書を褒めていたのが印象的です。
「とはずがたり」を旅しよう (講談社文庫―古典を歩く)
このシリーズ、いくつか読んできましたが、本書では驚くべきほど作者(富岡さん)の姿が前面に出てきません。作者の美意識や価値観、そして主人公(本書では二条)への共感が、普通は「古典を歩く」シリーズの旅のモチーフとなるのですが、ここではむしろ淡々と「とはずがたり」の筋が時系列的にたどられていくだけです。
そういう意味では小説(新とはずがたり (講談社文庫))以上に原作の筋を忠実にたどるには役に立ちます。「死ぬほどの悲しさ」で取り上げられる、伏見離宮での三日間の部分の描写は、抑えられていますが、これは確かに異様なシーンであり、著者も相当のスペースを与えています。
上記の小説とは違い、本書の半分は出家後の旅にスペースが与えられているのですが、この部分でも土地の魅力が浮かび上がる事はありません。むしろ著者により強調されるのは二条にとっての後深草上皇の存在の大きさでしょう。とはずがたりの著者が訪れた場所もそれなりに著者により再訪されているのですが、著者の著述があまりにも抑えたものであるためでしょうか、どうも薄い印象しか与えないようです。
ところで、今気がついたのですが、この「古典を歩く」シリーズ、すべて著者が女性作家なんですね。これはこれで別の解明を必要とするテーマなのかもしれません。
波うつ土地・芻狗 (講談社文芸文庫)
富岡多恵子女史の作品は、とにかくパンチの効いた女性が多い。
加えて、諦観のような、達観のような雰囲気さえある。
セレブぶった女が考える『女はこうでなくっちゃ(ハート)』とか、
古典的な男性が求める『女性らしさ』などをお探しの方は
この本を手に取らない方がよいだろう。
生々しい〈女〉が描かれた「波うつ土地」「芻狗」「環の世界」
中でも「芻狗」は最高作品なのではないだろうか?
ちなみに芻狗とは、儀式のときに祭壇に捧げられる藁で作った犬のこと。
作者・富岡多恵子は元詩人だったが、その後小説家になった。
この本に収められている作品たちは、コトバによる表現を失ってしまった
その後の人間の様子が描かれているように思う。
川端康成文学賞全作品〈1〉
川端賞の対象ジャンルは短編小説である。本書には第1回(1974年)から第13回(1986年)までに受賞した作品が17編収められている。またそれらとあわせて、巻末に各回の選考委員の選評がすべて収められている。受賞作のすばらしさもさることながら、選考委員たちの選評もそれぞれが個性的で滋味に溢れている。
例えば、委員の一人である中村光夫の「ひとつの水滴に大空が映るように、現代文学の動きがここに見られるのも確かである」という比喩は秀逸である。私は中村光夫や山本健吉の言葉に接するのはこれが始めてであったが、感心しきりだった。また吉行淳之介のコメントもどこかおどけた調子が滑稽で、そういう意味で「らしさ」が出ている。軽妙洒脱とはこういうことをいうのだろう。このように選考委員たちの言葉がすべて掲載されており、いちいち読むのが楽しい。
さて、このような立派な選考委員たちが選んだ作品であるから、どの作品も傑作である。円熟味を帯びた作品が目白押しで、マエストロたちの饗宴といった観がある。そのなかで私が気に入ったものを挙げるならば、永井龍男「秋」、和田芳恵「雪女」、野口冨士男「なぎの葉考」、島尾敏雄「湾内の入江で」である。特に、「秋」などは芸術の域をほとんど超越した出来栄えになっており、読後の余韻にはこの上ないものがあった。
蛇足だが、こういうアンソロジーが文庫化される日が来ることを望みたい。
物語のようにふるさとは遠い
1曲目からものすごい衝撃を受けました。
こんなCDは世界中探しても他にないと思います。
耳ざわりのいい曲では全くありませんが、どうしても頭に残ります。
音楽と詩の中間地点にあるような、非常に不思議な感じです。
とにかくすごいです。圧倒されました。