砂糖アシエンダと貧困―フィリピン・ネグロス島小史
筆者は有名なフィリピン経済研究者であることは知っていたが、内容を読んでその素晴らしさに驚いた!筆者は後から知ったが、フィリピン砂糖業研究で米国で著名な賞を受賞したという。さもありなんと思った。常々、フィリピンの学術的研究は難しいと感じていたが、このような素晴らしい長期間かけた研究を日本人女性がやっていたことに誇りを感じた。内容は一行一行、地道な長年の研究と真摯な姿勢が感じられた。
ネグロス島戦記―マンダラガン山に果てし戦友よ (光人社NF文庫)
私が、バコロドに住んでいてゴルフ場から見ているあのマンダラガン山が日本軍が敗走した山だとは正に驚きであった。
レイテ、バギオに続いて比島第三の激戦地であったことも知らなかったがこの本を見つけたのは、ルソン島北部に住んでいる方がブログで本を紹介していたからで全く偶然であった。
生還された高知県出身の池 平八さんが戦後書かれた戦記である。バコロドに昭和19年春、第11師団工兵隊の兵士として派兵され、池さんは工兵であるため隣の町、タリサイの飛行場建設のために応援として駆り出されたそうです。
建設がまだ未完成だったが米軍戦闘機が襲来し爆撃したが全く平地で隠れる場所がなかったそうです。確かに、あの辺は今でも砂糖きび畑で平地です。それから、米軍が上陸して日本軍はマンダラガン山麓に陣地を構え戦闘になったが、米軍の砲撃によってかなりの損害を出したので司令部は、山を越えて東ネグロスの方に撤退することを決めました。先発隊が既に山を越えて山の反対側に陣地を作っているということだったそうです。池さんは、師団の副官の当番兵で副官とともに撤退していきましたが途中で副官はお腹を壊し腹痛になり副官を助けながら山を登りましたが途中に急な岩壁があり副官は登れないのでそこで何日か休んでいたそうです。副官は途中の川で水を飲んだらしいです。
副官がとうとう死んだため埋葬して一人で山を登り山頂に着いてみると岩山だったそうです。
それから反対側に山を下って行きましたが樹林になっていて暗い山を下っていくと途中に兵舎らしき建物が沢山あったので誰かいないか探したけれど日本兵に死骸だけでその内食料を発見して一つの兵舎に住み米の籾がらをついて米を作り食べたそうです。水は、谷川で汲み塩とマッチを見つけ飢えをしのいで暮らしていて、ある日、登って来る日本兵を見つけ部隊はどこにいるか尋ねても何も返答しなかったそうです。彼らは又山を登って行ったそうで池さんは、山を下りついに日本軍の陣地に辿り着きそこで終戦を知ってそれから降伏の場所まで何日か歩いてそこで捕虜になったそうです。
山を登ってきた兵士の一隊は終戦を知らせるために生き残りの兵を探しに来たものと後でわかったそうです。
山の表側の岩の壁が急で負傷した兵や病気の兵たちは登れずやむを得ず残して来ざるを得なかったのが慙愧に耐えないそうです。
とにかく幸運にも生還された池さんが戦記を書いてくれたので戦闘の模様がよくわかりました。
国のため我慢をして文句を言わず戦死された英霊の皆様に感謝を申しあげます。英霊の皆様は日本民族の発展のために尊い命を捧げられたわけであります。
しかるに、65年経た現在の日本で国を売る政党が出現し国民も奴らを選んだのですが、
出来ることなら、そういう売国奴たちに天罰を与えて欲しいと願っています。