小説神髄 (岩波文庫)
近代文学黎明期の記念碑的な作品。「そもそも美術(本書中では『芸術全般』を指して『美術』と書かれている)とは」「小説は近代以前の物語文学と如何に異なるか」など、明治中期の文芸思潮がよく分かる作品である。現在に於いては自明である概念が主体なので、新たな発見は無いかも知れないが、近代文学の出発点に於ける叩き台として、歴史的価値の高い書である。長らく絶版状態だったが、重版再開で入手しやすくなった。
文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛
とてもとてもとても面白い本!鴎外の日本兵食論だの、審美綱領だのを読み始めてはみたものの、途中で放り出した身としては、それがどういう意味があり、明治時代においてどのように位置付けされるかわからなかったし、テーベ百門の大都と称される鴎外の幅広い教養に圧倒されるのみであったが、著者はその教養の中身を、同時代との論争を通じて明らかにする。今の立場から見れば,まあこんなもんじゃないかねえ、とは思うが,鴎外ってのはとんでもないイヤな奴だったらしい。坂内正という人も書いていたが、エイズ事件の、あのアベタケシと双璧(?)といった感じ。
久しぶりにスリリングな本を読んだ。
よみがえる自作朗読の世界~北原白秋、与謝野晶子、堀口大學ほか~
北原白秋の読む擬音語がおもしろい。
『神父さん』トントン。
『神父さん』トントン。
『神父さん』トントン。
『神父さん』トントン。
『神父さん』トントン。
『神父さん』トントン。
『神父さん』トントン。
『副院長さん』トントントン。
『副院長さん』トン。
ハムレットの恋人オフィリアの台詞を、まるで歌舞伎の女形の声色(こわいろ)そのままの調子で読む坪内逍遥も、じつに興味深い。
与謝野晶子の朗読が、期待に反して、おそろしく一本調子だったのには驚いた。声の上げ下げの場所が、どの歌も全部おなじなのだ。短歌の詠み方には、古くから独特の慣習があって、その枠から外れるわけにいかないのだろうか。
萩原朔太郎の朗読は、棒読みそのものだった。ところどころ、読み落としている語句さえある。
ふと思った。こんにち私たちが、朗読の典型的イメージとして想起する、NHKのアナウンサーやベテラン俳優の、あの声の調子は、比較的最近になって確立した、一種の様式なのだろうか?
今日ちまたでは、ポエトリー・リーディングとか「詩のボクシング」など、従来の詩の朗読の枠を越えて、ライブ・パフォーマンスとして詩を発表する場が増えている。でも、偉大な作者本人が読んでくれるなら、たとえどんなにたどたどしい読み方でも、つい聞き入ってしまう。やはりテクニックがすべてではない。
長唄全集(二十)新曲浦島/多摩
明治後半に作られた割と新しい長唄三曲のようです。
坪内逍遥の詩の世界が美しい「新曲浦島」。某お家元の御曹司が踊っているのを観て思わず感涙し、調べてみると坪内逍遥作詞ということで余り耳馴染みがないけれども買ってしまいました。「浦の苫屋の秋の夕暮れ」というか、そういう古歌的な美しい想像の海の世界から、船乗りの日常の海へと劇的に変化しながら、歌詞がきっちり曲に乗っているのはさすがです。それに漁師の振りを付けた舞踊家もすごいと思います(曲自体には浦島太郎は出て来ないけれども、舞踊を観ると「浦島太郎かな?」と思える)。
「しずやしず、しずのおだまき」がキャッチフレーズの「賤の苧環」。義経と別れた静御前が頼朝の前で義経恋しの舞を舞うという、語り物のように芝居要素の強い曲です。明治末期の曲というのは知りませんでしたが、歌詞の一貫性や史実の細かい参照などは演劇改良運動なんかの影響かなと思いました。
多摩川は初めて聴きましたが、歌詞に如何にも近代的で堅い部分があり、違和感があります(曲は普通の長唄)。
ザ・シェークスピア―全戯曲(全原文+全訳)全一冊
とにかく全戯曲、全訳がこれ1冊で読めちゃうのはすごい!
しかもお得な値段です
とくに文句はないのですが、強いて言うならば
1.原文の字の小ささをもう少し大きくして欲しい
2.坪内逍遥の訳ではなく(味があって良いのですが、
かなり時代遅れなので)小田島雄志さんの訳にして欲しい
僕は原文と白水Uブックスの小田島さんの訳を対比させながら
読んでます